私の母は、私が小学校へ入学するのとほぼ同時に近所の食品スーパーで働き始めました。そのスーパーは自宅から徒歩で10分ほどの場所にあり、私の通っていた小学校の通学路にあったので、母に用がある時は学校帰りにスーパーに寄って母に会ったりしていました。

私が生まれ育ったところは東北地方のど田舎。母の勤めるスーパーはその地域では貴重な大きいスーパーでした。(今思えば、規模で言うと小さい方だと思います)この地域で「●●●(スーパーの名前)」といえば、誰もが知っている有名なスーパーで、そのスーパーで自分の母が働いているというのは、子供なりに自慢だったのを憶えています。

母は、そのスーパーで精肉部門を1人で担当していたのですが、私が行くと、一般客は入れない精肉部門の裏側の部屋へ入れてくれました。そういう特別な気分を味わえるのも嬉しかったですね(笑)母は、白衣にエプロン、白い長靴、頭には白い三角巾という服装で、ブロックになった肉をノコギリみたいな器械でスライスしたり、切った肉を計量して値段と商品名の書かれたラベルを印字して貼りながらパック詰めをしたりと、きびきびと働いていて、家で見る母親の姿とはまた違い、いつも圧倒されていました。

母は時々、私にもパック詰めの作業をやらせてくれました。トレイに大きなラップを張り、トレイを動かしながらラップを適度な大きさに切り、あまったラップをトレイの裏側に寄せ集めて、熱くなっている鉄板の上に軽く乗せて圧着し、ラップが剥がれないようにしていく作業です。これが意外とコツがいるんです。母はその作業を1パック作るのにほんの数秒(4秒ぐらい)で行っていましたが、私は1分ぐらいは掛かってしまうので、大抵はぐちゃぐちゃになってしまい、母がやり直してくれたりしていました。ある意味、私は母の勤めていたスーパーで貴重な社会勉強をしていたんですね。

スーパーの精肉部門は鮮魚部門と並んでいて、精肉と鮮魚担当の従業員の休憩場は鮮魚売場の裏側で同じ場所だったんですが、私は図々しくも、母と一緒に従業員の休憩場所でくつろいだりしていました(笑)鮮魚部門で働いていたのは、私の姉の同級生のお母さんや、70歳ぐらいのおばあさんだったりしたので、私のことをかわいがってくれ、とても居心地が良かったのを憶えています。暑さで変形したまま固まってしまい、売れ物にならなくなったアイスクリームとかをおやつとして私に出してくれたりして、すごく嬉しかったですね。

学校では受け入れられない私をここでは受け入れてくれる。
ここの人達は、私の存在を認めてくれている。


そんな感覚が子供ながらにあったように思います。でも。 そう楽しい時間は長くは続かないものですね。

ある日、またいつものように母のいるスーパーへ遊びに行きました。その時も、鮮魚部門のおばあさんになんか頂いて食べたような気がします。休憩が終わった後、私は母と一緒に精肉部門の部屋へ戻ったのですが、部屋に戻るなり母が私に、小さいながらも強い口調でこう言いました。

「挨拶もできないなら、もうここへ来るな!」

私にとってスーパーの裏側は小学校にいる時の数倍居心地の良い場所でした。けれども家ではなかったため、私は笑顔こそ学校よりは多かったのですが、母以外とは話せず、他の従業員の方とは首振りか笑顔のみの対応をしていたのでした。

母にとっては、そういう私の姿を目の当たりにするたびにショックだったのかもしれません。人並みに挨拶もできない我が娘の姿に、ずっと恥ずかしさや憤りを感じていたのでしょう。母を始め周りの方々は、私がどういう状態にあるのか知り得ないのですから。見たままで判断され、批判されても当然だと思いました。

母に言われた後、私はどうしたのかな。憶えていないのですが、そのまま家に帰ったような気がします。そうしてその後は、頻繁にスーパーへは行かなくなったのでした。いや、正確には行けなくなったんですね。そういう場所で話せないことを自分が一番良く知っていましたから。母に言われたからといって、すぐに話しだせるような単純なことではありませんでした。でも、もし許されたなら、あと半年ぐらいスーパーの裏側に通うことが出来たら、もしかしたら少しずつおばあさんとも会話できるような気もしたのですが。。。

緘黙の経験者だったら、もしかしたら誰でも経験のあることなのかもしれません。緘黙ゆえに自分自身の居場所を失ったり、好きなことを諦めなければならなかった経験。

人間というものは、こんなにも「言葉」によるコミュニケーションを重要視していること。「言葉」は、コミュニケーション手段の大半を占めていること。そういうことを、このことで身に染みて感じたように思います。

「挨拶ぐらいしろよ」「挨拶もできないのか」なんていう表現があります。挨拶は人間関係の基本、第一歩と言われます。挨拶が出来ない人は、人間関係を拒否していると思われるのでしょうか。逆に、挨拶さえ出来ていればある程度は許されてしまうのでしょうか。

挨拶ができなかったとしても、始まる人間関係もあるんじゃないか。ある程度関係を築いたからこそ言える、そういう挨拶もあるんじゃないか。なんて、私は思ったりもします。小さい子供が、いつの間にか知らない子と一緒に仲良く遊んでいるように、気持ちが通じさえすれば始まる関係だってきっとあるんですよね。

けれど、大人はいきなり知らない人と一緒に遊んだりはしませんよね。(たまにはいるかもしれませんが)子供にだけ通用する人間関係の築き方があるように思います。大人になるにつれ、そういう選択肢が減っていくように思います。だからこそ、緘黙症は歳を重ねるにつれ改善されにくくなるのかなと思います。

(2008年1月 微妙に追記・修正を加えました)



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