fc2ブログ

07月≪ 2006年08月 ≫09月

12345678910111213141516171819202122232425262728293031

2006.08.29 (Tue)

亀吉じいちゃんとの思い出

さて・・・前に記事を書いた時に思い出した、鶴山亀吉じいちゃん(仮名)との
思い出話を書きたいと思います。

・・・*・・・*・・・*・・・

私が高校2年生の時の話です。
私の通っていた高校では、2年生の時に修学旅行があるのですが、
私も参加して行ってきたのでした。(ちなみに行き先は、大阪、京都、奈良でした)

確か10月頃の修学旅行だったと思います。
私は、母の実家にもお土産の箱菓子を買ってきたので、母経由で祖父母に
お土産を渡そうと思ったのですが、母に、「自分で渡した方がいいんじゃない?」と言われ、
母の実家が通学途中にあったこともあり、自分でお土産を渡すことにしました。

私の家と母の実家は、実はそんなに遠くはないのですが、お盆やお正月以外に
訪問する機会がほとんど無く、私にとっては、祖父母は少し遠い存在になっていました。
そんな状態だったので、私1人で母の実家を訪問するなんてことは初の試みで、
どんな反応をしてくれるのか不安でもあるけれど、ちょっとばかり楽しみでもありました。

そして、いよいよ母の実家へ訪問するぞ!と決めた日、私はお土産の箱菓子を
学校まで持参し、下校途中に母の実家へ寄ることにしたのでした。
下校途中なものだから、私は制服姿だったのだけど、こういう姿を見せたことが
なかったのですが、まあいっか、という感じで母の実家へ行ったのでした。

時間は、午後4時半頃だったと思います。
私は母の実家へ到着し、玄関のドアを開けようとしたところ、しっかりとカギが
掛かっていました。ありゃ、お留守かな?と思いつつ、チャイムを鳴らしてみました。
すると、カーテン越しに物音が聞こえ、亀吉じいちゃんが出てきました。
じいちゃんは、持っていた杖を伸ばしてドアのカギを開けてくれました。

私は笑顔で「こんにちは!」と言いながら玄関の中に入り、
「これ、修学旅行でおみやげに買ってきたからどうぞ~」と言いながら、
箱菓子をじいちゃんに手渡したのでした。
じいちゃんは、箱菓子を受け取った後、私の顔を見て、こう言いました。


「ところで、あんたは誰だ?」


正直、面食らいました。まさか、そんな風に言われるとは思っていなかったので、
動揺した私は、何と説明したらいいのかとっさに思い浮かばなくて、
「私の父は●●(名前)で、母が●●(名前)で、私は末っ子のるいです。」
っていう説明をしたのでした。今思えば、「じいちゃんの孫の、るいだよ!!」
の一言だけで良かったのにって思うのですが、その時はそれが精一杯でした。
亀吉じいちゃん、目をまん丸にしてたなあ。


そんなこんなで帰宅した私は、とても悲しい気持ちでいっぱいでした。
じいちゃんが私のことを気付かなかった、じいちゃんが私のことを忘れていた、という事実。
まあ、滅多に会っていなかったのもあるし、私が制服姿だったのもあるし、子供の顔なんて
成長と共にころころ変化してしまうし、じいちゃんの記憶が追いつかないのもわかります。

だけど。だけど、悲しかった。

今日私が母の実家に顔を出すって知っていた家族には、「行ってきた?どうだった?」
と聞かれました。私は扉越しに制服から私服に着替えていたのですが、
「行ってきたよ~。『あんた誰だ』って言われた」と答えると、姉は、
「ふ~ん。ちょっと寂しいなあ」と言っていたのでした。

私はその後は無言で着替えていました。
我慢していたのだけど、涙が出てきて話せなかったのです。
泣いているのがばれないように、着替え終わると同時に気持ちを切り替えたのでした。

後から母から聞いた話によると、母の実家には若いセールスマンや
セールスレディの訪問販売が多くて、高校の制服を着ていた私を見て、
じいちゃんはまた訪問販売の人が来たのだと思っていたらしい。


それから2ヶ月後の12月。亀吉じいちゃんは自宅で突然倒れたのでした。
私は子供だったので教えられなかったのだけど、たぶん脳出血かな。
寒い日の夜、その日に限っておしゃべりなおばちゃんから母に電話が掛かってきて、
母はずっと長電話していました。

そこへ、祖父母と同居している叔父が、電話が繋がらないからと直接我が家にやってきて、
「じいちゃんが倒れた!」と教えてくれたのでした。
母は慌てて電話を切り、叔父の話だとまだ救急車を呼んでいないっていうので、
母が救急車を呼ぶことにしたのでした。突然の出来事に慌てた母が、救急番号を
ど忘れしたらしく、私が「119だよ!!」と叫んだのを憶えています。

運悪く、私の住んでいた地域には救急車が一台しかなくて、今救急車が別の件で
出動中とのことで、じいちゃんは自宅で約1時間ぐらいそのまま救急車待ちをしたらしい。

そして、それからさらに約1ヶ月後の翌年の1月。
亀吉じいちゃんは、入院したまま息を引き取ったのでした。

私が亀吉じいちゃんにお土産を渡した3ヶ月後に、じいちゃんは亡くなってしまいました。
その間、入院中のチューブまみれのじいちゃんを1度だけ見たのが、
生きているじいちゃんに会えた、最後となってしまいました。

お葬式の時、母の実家で座っていると、知らないおばちゃんから声を掛けられました。

「あんた、るいちゃんだよね?亀吉じいちゃんが笑ってたよ~。
お土産を持ってきてくれた孫が、一生懸命、父が●●で、母が●●でって
丁寧に説明してくれたって。すごくおもしろしそうに話してたよ。」

どうやら亀吉じいちゃんは、私がお土産を渡している時に、途中から私が自分の孫だと
解ったらしいのだけど、言い出せなかったらしい。
もう解っているのに、私がくそ真面目に説明している姿が滑稽に見えたんでしょうね。

でも、私は思ったんです。
亀吉じいちゃんの私に対する思い出が楽しいもので終わったのなら、
それで良かったんじゃないかなって。
確かに、当時は一瞬でも忘れられていたことが悲しかったけれど、
すぐに思い出してくれてたみたいだし。

亀吉じいちゃんは、私とのお土産の時のやり取りが本当におもしろかったらしくて、
ご近所との雑談でこのことを話しては、笑ったりしていたようです。
亀吉じいちゃん、笑いすぎです(笑)

心残りなのは、健在なうちに話をする機会がほとんど無かったこと。
一緒に写真を撮ったこともないですし。
だから、おじいちゃん、おばあちゃんを身近に感じながら成長している私の息子が、
すごく羨ましく思う今日この頃です。


あー、久しぶりにじいちゃんをたくさん思い出しました♪
なかなか帰省できないので、お墓参りにいけないけれど、
心の奥にじいちゃんのことはずっと閉まってあります。
ちなみに、ばあちゃんはまだまだ健在です!
みなさん、おじいちゃん、おばあちゃんは大切にして下さいね!



テーマ : 体験談 - ジャンル : 心と身体

09:25  |  私の高校時代  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2006.08.24 (Thu)

64の命

緘黙の体験談ではありませんが、先日急に思い出した出来事がありましたので、
思い出として書かせてもらいますね。

・・・*・・・*・・・*・・・

私が小学5年生ぐらいの時のことです。

国語の宿題で、「地元にまつわる昔話を探す」という宿題が出されました。
昔話と言うことで、ずっと地元に住んでいる親やおじいちゃん、おばあちゃんに
話を聞くというのが宿題の目的でもあったように思います。

私も親に聞いて、昔話を書き留めたような気がするのですが、
どんな昔話を書き留めたのか、全く覚えていません。

数日後、みんなが昔話を集めただろうと思われる頃に、
国語の授業中に1人ずつ集めた昔話を発表することになりました。

席順に指名されて発表することになり、私は最後の方だったので、
他の生徒の発表をずっと聞いていたのですが・・・
私は、ある生徒の昔話を聞いて、すごくびっくりしたのを覚えています。

その子が発表した昔話を、うろ覚えですが書いてみますね。

------------

「64の命」

昔々、地元に「鶴山亀吉」という、とても力の強い人がいました。
彼はとても力が強く、いつも力自慢ばかりしていました。
力が強い証拠として、とても重い米俵を2つ背負い、
下駄を履いたまま、村じゅうを歩き回って見せたそうです。

けれど、亀吉の家系では、”64歳で亡くなる”という噂があり、
彼の父親も、祖父も64歳の時に亡くなっていたのでした。

そして、亀吉自身もまた、64歳でこの世を去ったそうです。

(おわり)


-----------

たしか、こういう内容の昔話だったと思います。
この昔話で、なぜ私がビックリしたのかというと、昔話に出てきた鶴山亀吉(仮名)は、
なんと、私の母方の祖父だったからです。

まさか地元の昔話で、自分のじいちゃんの名前が出てくるとは想像もしていなくて、
ただただ、すごくビックリしてしまったのでした。
しかも、その時点でじいちゃんは健在だし。(当時70歳ぐらいだったと思います)

だから、私の発表の番が来たら、
「さっきの昔話にできてた鶴山亀吉は私のおじいちゃんだけど、まだ生きてます」
ってクラスの前で言おう、言わなきゃ、じいちゃんが64歳で死んだことになっちゃう!
って真剣に思ったんですよね。

だから、私の発表の番になるのをこの時ばかりは早く来ないかなって思っていました。
そして、次は私の番!!っていう時になって、なぜか先生が私を指名せず、後ろの子を
指名したんです。それからは、私が発表する機会がないまま、授業は終了してしまいました。


たぶん・・・私の様子がいつもと違うことを察したT先生が、私の番を飛ばしたんですよね。
(発表したくないのだろう)と解釈して、気を利かせたのかもしれません。
でも、この時ばかりは発表したかったなあ。

当時、クラスでは、先生に対して毎日日記を提出する決まりになっていたので、
私のその日の日記で、「あの昔話に出てきた鶴山亀吉は、私のおじいちゃんです!」
って書いた記憶があります。戻ってきた先生の返事は、

「とても力の強いおじいちゃんだったんですね。」

みたいなことが書いてありました。
「だったんですね。」って。・・・・まだ生きてるよーーーー!!

私はおじいちゃんが64歳で亡くなったと思われているのが、今でもちょっと心残りです。
まだ生きてたのに、なんで昔話にされちゃったんだろう、うちのじいちゃん

当時、母親に「昔話の宿題で、うちのじいちゃんがでてきたんだけど」
と話した記憶があります。母は、「確かに力持ちだったけど~、そういえば、
米俵を担いで歩いた時もあったような気がするなあ」なんて話してました。


ちなみに・・・鶴山亀吉じいちゃん(仮名です)は、私が高校2年生の時に亡くなりました。
長生きした方だったと思いますよ。

この季節だったからかな。
こんなことがあったなあ、なんて思い出したので書かせてもらいました。

この話でまた鶴山亀吉じいちゃん(仮名)との思い出を思い出したので、
後ほどUPさせていただきますね。




テーマ : 昔、昔の思い出話♪ - ジャンル : ブログ

18:33  |  私の小学時代  |  CM(6)  |  EDIT  |  Top↑

2006.08.12 (Sat)

先輩の命令

さて、久しぶりに緘黙の体験談に戻りたいと思います。

・・・*・・・*・・・*・・・

私が中学生の頃の話です。

お昼の休み時間だったと思います。私が自分の席に戻ろうと、教室の中を歩いていると、教室の出入り口の所にいる人と目が合いました。その人は1学年上の先輩だったのですが、私と目が合うと手招きで”こっちへ来て”というしぐさをしたので、私は(なんだろう?)と思いつつ、先輩のところへ行ったのでした。

私が近づくと、「S君、呼んできてくれる?」とお願いされました。その先輩は、うちのクラスにいる同じ部活の男子に用事があるらしいのです。たぶん、その先輩は私が緘黙だなんて事はもちろん知らないと思います。知っていたら声は掛けないだろうし。私は先輩に言われて頷いたものの、話しかけることができず、どうやってS君を呼び出そうかちょっと考えて、思い付いたのが肩を叩く方法でした。

私はS君の側に行き、席に着いていたS君の肩を叩きました。「トントン」→私の方へ振り向くS君。私はジェスチャーで、教室の入り口に先輩が来ていることを伝え、S君は私が指差す方を見て先輩を見つけると、「あぁ」という顔をしてさっさと先輩の方へ歩いて行ってしまったのでした。ああ、良かった。これで私の任務は終了!!(笑)

私の通っていた中学では、先輩、後輩の上下関係がとても厳しく、先輩の命令は絶対!という学校だったので、このままS君を呼び出せなかったら、どうなるかと思っていたので、ものすごく安堵したのを覚えています。

余談ですが、私のいた中学では校内でも校外でも先輩と会ったら、先輩が自分の前を通り過ぎるまで挨拶しながらずっと会釈をし続けなくてはならないというルールがありました。それがとっても苦痛だったなあ。例えるならそう、まるで「赤べこ」のように頭を小さく何度も上下しながら、その場で「さようなら、さようなら、さようなら・・・・」と言い続ける。先輩からの挨拶はもちろんあるわけ無いので、傍から見たら一方的な挨拶なのですが、もしも怠ろうものなら先輩に目を付けられるかもしれない、という恐怖が常に付きまとっていたので、とても苦痛でした。そのせいでちょっと出掛けたいんだけど休みの日も外出を渋ることもあるぐらいでした。

そういえばある日、先輩に会わないようにと祈りながら自転車に乗ってちょっと近所まで出掛けたことがあったんですね。ところが自転車で走行中に、思いがけずに先輩と会ってしまって、(挨拶しなきゃいけない、けれど、わざわざ自転車から降りたくない)という葛藤の末、自転車に乗って走行しながら「さようなら、さようなら、さようなら・・・・」と首を振りながら通り過ぎた時がありました。さすがの先輩もすれ違った直後、私の後方で「自転車に乗りながらやってる~(笑)」と笑ってましたけど、こういう時ってどうすれば正解だったんでしょうか?(笑)今思えばくだらない気苦労がいっぱいあった中学時代でした。今でもそういう変なルールが続いているかどうかは知りませんけど。たぶん無いんだろうな。

そういえばこんなこともありました。部活の時、先輩に私がダッシュの号令を掛けるようにと言われたことがありました。単に、「よーい、ドン!!」と言えばいいだけの話なのですが、私はどうしても「ドン!!」の部分で大きな声を出すのが恥ずかしくて嫌だったんですね。

それでとっさに考えた結果、「ドン!!」の部分を手で「パン!!」と叩くことにしたのでした。自分ではとても良いアイデアだと思ったのですが、いざ手を叩いてみると思ったより大きな音が出ず、号令を待っていた数人は、てっきり私が口で「ドン!」言うものだと思っていたのでズッコケてしまい、先輩に、「今、誤魔化しただろお~!!」と言われたことがありましたね(笑)人を呼ぶ時も、号令を掛ける時も、なるべく声を発したくない私なのでした。




テーマ : 緘黙症 - ジャンル : 心と身体

17:40  |  私の中学時代  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2006.08.04 (Fri)

Aちゃんのこと

子供達は夏休み真っ盛りですね。
私が子供の頃は、夏休みと言えばラジオ体操。
今回は、”ラジオ体操”で思い出したお話を書きたいと思います。
(緘黙とは関係ないかも知れないですが

・・・*・・・*・・・*・・・

小学生の頃、私には下校後に一緒に遊ぶ年下の近所の友達が数人いました。
その中には、私ととても気の合う従妹のAちゃん(女の子)がいました。
私より2つ年下だけど、家も近くて下校すると真っ先に会って遊んでいました。
Aちゃんの家が私の帰り道にあったこともあり、ランドセルを背負ったまま
Aちゃんの家へ行き、「ただいま~♪」なんて言って、Aちゃんのお母さんに
笑われたりしたこともありました。

同じ地区に住んでいるので子供会の行事でも一緒。
なにかあればいつも一緒にくっついて行動していました。
お互い、一緒にいて居心地が良かったのかもしれません。
私にとっては、学校で話が出来ない分、話の出来る相手でもあったし、
とても貴重な存在でした。

あれは、私が小学5年生ぐらいだったと思います。
夏休みのある日、いつものようにラジオ体操を終えて帰宅すると、Aちゃんの
近所に住んでいるKおばさんがちょうどうちの玄関から出てきて帰るところでした。
Kおばさんは私の顔を見ると、

「あら、お帰りなさい!るいちゃんはいつもエライからね~」

と意味深な言葉を残して去っていきました。
私は意味は分からなかったのだけれど、とりあえず笑顔でその場を通り過ぎたのでした。
(今思えば、当時の私は近所の遊び仲間の中ではリーダー的存在だったので、
結構、発言に権力があったりしたので、そのことを言っていたのだと思います。)

家に入ると、母親から話があると言われました。
話の内容は、 「私とAちゃんが一緒に遊びすぎる」 ということについてでした。
どうやら、私と一緒に遊んでいるせいで、Aちゃんが勉強をする時間が無くなり、
Aちゃんのお母さんが困っている、という内容なのでした。

どういうわけか、KおばさんはAちゃんのお母さんからそういう話を聞いて、
それを私の母親に伝えに来ていたのでした。母は私に、
「一緒に遊んでも良いけど、あまり遊びに行き過ぎないように」というやんわりとした感じで
注意をし、私はいつもの調子で「わかった。」と言い、その場を離れたのですが、
内心、心臓はバクバクでした。

私は、家族以外の人に注意されたり叱られたりという経験があまり無かったこともあり、
今回、第三者から注意されたことは、今までの自分の行動を全て否定されたような感覚と、
(私は悪い人間なんだ)という意識を生み出し、そして、もうAちゃんとは会ってはいけない
と、自分の心の中に強く刻み込んでしまったのでした。

母親は、会う回数を減らすようにと言っただけだったのですが、私は当時から
”all or nothing”な性格で、その中間の態度がとれなかったんですね。
その日を境に、私はAちゃんとは一切遊ばなくなってしまいました。
周りの大人に注意されないように・・・そう考えると、遊べなくなったという表現の方が
正しいのかもしれません。

近所の遊び仲間の中に、Aちゃんと同級生の女の子が一人いたのですが、彼女にも
「もうAちゃんとは遊ばない」ということを伝え、Aちゃんは悪くないのに、なぜかわざと
嫌いになったような素振りをして、2人でAちゃんを避けるようになっていました。

Aちゃんは、お母さんから事情を聞いたかどうかはわからなかったのですが、おそらく
なんの説明もされなかったんでしょうね。私の突然の態度の変化に最初は戸惑ったらしく、
小学校の私の靴箱に「ごめんなさい」という内容の手紙が入っていたこともありました。
自分が何か悪いことをしたのかもしれないと思ったのでしょうね。

さすがにその手紙を受け取った時は心苦しくて、「本当は嫌いじゃないんだよ」っていう
内容の手紙をAちゃんと同級生の遊び仲間の子に託したこともありました。
その手紙はちゃんとAちゃんに届いたのかどうかは確認していないのですが・・・・
結局、私はAちゃんとはそれ以降関わることなく過ごすことなったのでした。


Aちゃんとそういう気まずい関係になってから数年後。
母親から、野菜のお裾分けをAちゃんの家に届けるように言われ、私はAちゃんとは
会いたくない、会えないという気持ちからすごく嫌だったのですが、母親からどうしても
行くように言われ、意を決して野菜を届けに行ったのでした。

てっきり、Aちゃんのお母さんが玄関に出てくるかと思いきや、玄関に出てきたのは、
なんとAちゃんでした。焦った私は、野菜を無理やりAちゃんに手渡すと、
「これ!!」 と言い、「それじゃあ!!」 と急いで玄関のドアを閉め、
風のようにその場を走り去ったのでした。
Aちゃんを目の前にして、目を合わせないというか、顔すら上げられない状態でした。
Aちゃんに対する罪悪感というか、心残りというか・・・Aちゃんは悪くないのに・・・
そういった思いが強すぎて、今でもたまにAちゃんのことを思い出します。

大人になってから知ったことが1つあります。
それは、実はAちゃんのお母さんは親戚の中でも変わり者みたいな感じで、
あまり親戚内でも付き合いがないということを知りました。
なのであれ以来、親戚が集まるような場でも一度もAちゃんの姿を見る機会もなく、
現在に至っています。

結婚したのかどうか、どこに住んでいるのか、何をしてるのか・・・
私はただ彼女のことを時々思い出すぐらいしかできません。
大人になった今なら、きちんと顔を見て話せるような気もします。
あの時突然離れなければならなかった理由をいつかきちんと伝えることが
できる日が来ればいいのですが・・・


(2008年1月 微妙に追加・修正を加えました)

・・・*・・・*・・・*・・・



テーマ : 緘黙症 - ジャンル : 心と身体

08:32  |  私の小学時代  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑
 | HOME |