RA・SHI・KU
”中間族”な私の、緘黙症・恐怖症などの体験談・過去の思い出、自己分析を兼ねて自分なりに調べた情報、子宮筋腫の通院の話、中学で不登校を経験した息子の幼少期から現在の近況など。自分らしく生きていくことを目指しています。
2006.02.12 (Sun)
お誕生日会でのこと
保育園では、毎月「お誕生日会」という会がありました。その月が誕生月の園児を対象として、その子供達の保護者も招いてのお誕生日会を開催してくれるという、園児にしては一大イベントです。例に漏れず、私もお祝いされる時が来ました。お祝いされる園児はステージに上がり、並べられたイスにちょこんと座り、見せしめの刑となります(笑)
どういう進行でどうなって終わったのかは記憶にありませんが、1人ずつ「大きくなったら何になりたいですか?」という質問をされる場面があったのは覚えています。順に答えていって・・・いよいよ私の番。
先生 「るいちゃんは、大きくなったら何になりたいですか?」
私 「・・・・・」
先生 「さあ、何になりたいのかな?」
私 「・・・・・」
こんな状態がちょっと続いた後、最後は先生が勝手に、
「るいちゃんは、保育園の先生になりたいそうで~す♪」
と言ってのけました。会を進行しなければならない先生の立場からすれば、それは仕方のない苦肉の策だったのでしょう。その時私は、ステージの上からじっと母親の顔を見ていたような気がします。そして私の番が終わり、隣の園児の言葉を聞きながら、「私は保育園の先生になりたいのか。」と思ったりしていました。なぜ先生にマイクを向けられた時、何も話さなかったのか未だによくわからりません。おそらく、すでに場面緘黙を発症していたのだとは思います。
私自身はそんなに悪気はなかったのだけれど、家に帰って母親が、「るいは何も言わなかったねえ。」と話してるのを聞いて、自分はとても悪いことをしたのだ、という気持ちになり胸が痛くなったのを覚えています。あの時、私は話さなかったのか、話せなかったのか?この症状は、のちのちまで後を引くこととなりました。
楽しいはずのお誕生会。私にとっては全く楽しいものではありませんでした。
話はちょっと反れますが、この日以降、私は誰かに「将来の夢は?」と聞かれると、「保育園の先生」と答えるようになっていました。だって、そういう風に答えさえすれば、「何か言いなさいオーラ」から開放されるんだもの。子供ながらにその場しのぎの手段を既に会得していたのでした。
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2006.02.12 (Sun)
「遊んであげて」
保育園での自由時間でのこと。園児達は思い思いに走り回ったり、すべり台で遊んだり、絵を描いたり・・・と笑顔が途絶えない中、私はいつも保育園の室内の、出入り口に近い壁に両手を後ろに組んで立ったまま寄りかかっていました。
誰にそうしろ、と言われたわけではありません。誰かに話しかけるでもなく、話しかけられるわけでもなく、ただそこにいてみんなの様子を見ている。いつもそんな感じでした。
ある日、いつものように壁に寄りかかっていると、同じ組の仲良し男の子2人組が私の前にやって来ました。そして何も言わずに突然私の手を引き、外へ連れだし、大勢で乗れる横乗りのブランコ(正式名称はわからないのだけど)の真ん中に私を乗せ、両脇にそれぞれ男の子が立ち乗りしをし、一生懸命にブランコを漕いでくれたのでした。でもそれはほんの少しの時間で、男の子達はその後、急に何事もなかったようにさあ~っとどこかへ遊びに行ってしまいました。
後で考えてみたら、男の子達が私のところへ近づいて来る前に、先生が男の子2人になにか話していたのを思い出しました。
「るいちゃんと遊んであげて。」
先生は、そう2人に話していたに違いありません。子供ながらに私はそういうことにはとても敏感でした。
私は、遊んでもらったんだ。
男の子達がどこかへ行ってしまい、また1人でいつもの場所へ戻っていく。あの時の漠然としたむなしい気持ちが今でも記憶の片隅に残っています。男の子達は先生に言われたから仕方なく私と遊んでくれたわけですが、ああいう気持ちの伴わない行動っていうのかな、ああいう形だけの行動って、全く持って相手の心に響かないものですね。楽しいとか嬉しいだとか、ちっとも思いませんでした。「なんだったんだ、今のは?」・・・それだけ。
義理で相手をされるぐらいなら、いつものように無視してくれた方がいいのにって思ったのでした。遊んでもらうより、いつものパターンを崩されることの方が嫌だったのかもしれません。
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2006.02.12 (Sun)